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連載9人目!

2023/11/01

企画者のトクスケは思った様に記事が集まらず、ストレスのため過食気味とのこと。

スタイルを気にしてダイエットしていたから、リバウンドだろうと思ったけど言わないことにした。食欲の秋だし。

 

さて、今日はウッチーです。

山梨遠征の時は運転手の僕の後ろでずっと起きていて話しかけてくれたり、みんなに面白い企画を提案してくれたり、どこかで回復に貪欲なところもあって、良いとこ一杯あるんだけど、それ以上にやらかしもある。そんなアンバランスなウッチー、どうぞ。

 

 

こんにちは、依存症のうっちです。

 施設で一番自由で一番迷惑をかけている人間ですが、少々のお時間お付き合い頂ければと思います。

15歳の冬に競馬を覚え18で上京し、20歳の誕生日の週にはサラ金から融資を受けました。もう8年前には依存症でした。

 大学では法学を専攻していましたが、国際海洋法や憲法など実学に乏しい学問を叩いていたからか、今でも大して役に立ちません(泣)

学生時代はアルバイト先では金銭の問題は起こしませんでしたが、私生活は散々なものでした。その後、順調には卒業せずやたら単位を取って、卒業しました。外資系の企業で一応マネジメントの仕事をしましたが私生活の金の問題で会社を退職。その後某インターネット関連の企業やベンチャーでフラフラする生活もしますが、すぐに終焉を迎えました。

 その頃には依存症の末期の症状でしたが否認の病の状態に陥っていました。その後は夜逃げの手伝い、夜職への金貸し(所謂闇金)などアングラな生活になり、知人とも疎遠になり、ちょうどその頃、障害者手帳を交付されてからは自分自身への強烈な劣等感と社会への恨みや妬みをギャンブルで発散させるようになり、何度も警察の面倒になるようになりました。全てがギャンブルで生活の全てがギャンブル中心になりました。

 実家を追い出されてからもそのようなことは続き、数度の自殺未遂と薬のオーバードーズなどで限界を迎え都内の精神病院に入院する事になりました。最初は保護室と呼ばれるトイレの扉も無い時間も分からない窓のない部屋に閉じ込められ、不安と孤独感を感じました。次に閉鎖病棟と呼ばれる病棟に移されましたが、1日1回看護師さんと外に散歩に連れて行ってもらい、少しの安堵感と売店などにも行けたので、ここで解毒をして生活を立て直そうと思い入院生活を送っていましたが、その後のカンファレンスで両親が自宅は引き払った事、施設に行くか一生入院をするか選べと言われ、絶望。その時リストカットを数回しました。精神病院に繋がってから底つきをしました。

 それから暫くすると別の病棟に移る事になり、今まで行けていた売店や散歩も行けなくなり、完全に2重扉の中の生活になりました。刑務所で懲役刑を科せられているのと同義の生活の中で生活費は底をつき洗濯も出来ず、精神が参ってしまい、死を覚悟しました。

 その後のカンファレンスの時に1年の入院か、九州の施設に繋がるか選べと主治医より選択を促され施設に入所をする事になるのですが、その時は何をするのかどうやって生活をするのかが分からず、不安感で寝れない日々が続きました。

 施設の職員がカンファレンスの1ヶ月後に私のことを迎えに来てもらい、桜が咲く前に入院し、退院した時は真夏の蝉の鳴く頃でした。佐賀に来る飛行機の中で、久々の外の世界を垣間見ることができ、感涙したことを今でも覚えています。

 佐賀空港から施設の寮に移動し寮で施設長に挨拶をして、少しの安堵感に包まれた私は4ヶ月間の入院でボサボサだった髪を整える為に散髪をさせて貰いました。その晩は拘禁反応?と呼ばれるもので一睡もできませんでした。

 生活に慣れた頃にはスリップ(依存行為の再発)が始まりました。去年の9月頃の話です。そこからは早いもので SIMカードを買いスマートフォンを手に入れ現金を湯水のように使いました。それが今年の2月まで続き、金が尽きて脱走しました。人間不信と自分自身に対する強烈な劣等感で放浪しました。

 自分の限界を認め、施設長に電話し東京の施設の職員に羽田まで送ってもらう際に12ステップについての話を伝えてくれました。一時間ほどの車内の会話でしたが、一番濃密な時間を過ごす事が出来ました。叶う事ならこの人にスポンサーをお願いしたい想いはその時から変わらずですが今でもお願いできずにいます。

 戻ってきてからは疎外感に苛まれる事があるのではないかなと思いましたが、そのようなことはなく施設の仲間もエイサーを教えてくださっている方も暖かく迎え入れて貰いました。暖かい気持ちに包まれる自分がいました。脱走するときもエイサーで出会った方が作ってくれた赤い太鼓のキーホルダーを握りしめて脱走した自分ですが、その集団にいる事が好きなんだなと実感しました。本当にその団体の方には感謝しています。

 その後も細かいやらかしは続きますが、周りの仲間の強力な支えとエイサーで出会った人との縁でしっかりと人としての道を歩んでいこうと思います。

 脱走後も受け入れてくれた施設長、戻る決心をさせてくれた赤い太鼓、そしていつも支えてくれる仲間に感謝を最後に綴り、筆を置きたいと思います。有り難う御座いました。

 

 

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