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入院の意味を施設側から考える

2026/05/06

ポポと会ったのはつい先日。都内の病院からの受け入れだった。

お迎えの方法を職員に伝えるべく僕は同伴していたのだが、見事にポポは佐賀への道中見本のような脱走を試みてくれた。

 

職員から連絡が入る。

〇〇の駅で見当たらない。切符を買うときまではいたがそこで目を離した。この駅は混雑が激しいので、もしかすると自分を見失って空港まで先に行ったかもしれない、なんていうのだ。とほほの出来事だったが職員と一緒に、依存症の「否認」について再考したのは佐賀に戻ってからにした。 

 

結局、職員は先に帰し、延泊した僕は見込み通り翌日警察署に呼ばれて1日遅れの迎え入れをした。

 

さて、そんなポポが施設へ入所してすぐに何かを受け入れるはずもない。

 

今度は自転車でお出かけした。

不眠不休で自転車を漕ぐ。彼はその昔、マラソンにハマって多くのランナーが憧れる3時間ぎりをした漢だ。僕らが探せるわけがない。他県の警察署から連絡が入り自転車ごとお迎えにあがったのはさらに二日後であった。

帰ってきたポポは身体的にも精神的にもクタクタで入院をしたいと懇願した。

 

僕たちは、(治療を始めるまでの)病気の「受容」に寄り添うことも役割の一つと考えている。だからこそ、バタバタと落ち着かないなぁと思いながらもそれに付き合い、彼らの今と僕らが行なっていることの現在地を突合させる。

そしてこれでよしとなるわけなのだが、僕らの思いだけではこの突合が成立しない時がある。それこそが今日の挑戦的なタイトルなんだ。

できればこの過程に伴走して欲しいと思っているのでそれは伝えるようにしているが、お世話になる病院にこの役割を一緒に担ってもらえないときがある。それは当然と言えば当然。病院にも経済原則があるし、病気の受容は病院で治療することではないとも考えられるからだ。

他者を変えることはできないということを、僕らはプログラムを通じて学ぶ。そして人生のいろんなところでそれを応用させる。とはいえ、意思表示しないことと相手の意思変容は別の話である。意思は伝えるがゆえに軋轢が生じることもあるが、変えられないものは受け入れるだけのことだ。

 

さて、そんなポポとの面会。

改めて彼の強みを共有し、外出泊を繰り返した上でいよいよ退院の日が近づいている。

もう一度一緒に頑張ってみよう。いや何度でも一緒にやってみよう。

今回の入院はどうだっかな。

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